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2011年7月

2011年7月31日 (日)

テオ・ヤンセン展~風を食べるビーチアニマル~

昨日、午後から大分市美術館でひらかれているテオ・ヤンセン展に行った。
ずっと気になっていたため、大きな期待を胸に会場に足を運んだわけだが・・・

いやぁー、すごかった。期待した以上の体験がそこにはあった。
未知の生物が目の前にいる。
これは何なのだ。

■砂が敷きつめられた海のゾーン。会場入ってすぐの未知との遭遇

感動するとはこのことである。
実物が醸し出す迫力。
その大胆さと緻密さ。
力学的緊張感とユーモラスなかたち。
どれをとっても本物のアートがそこにはある。
そして圧倒的な美しさは人を魅了し、人々を釘付けにする。

■理想的な歩行曲線を描く聖なる数で構成された足

展示構成もまた見事であった。
作者のメモ風につづられた文字の列が目線の高さにあわせて1本の線となり、海・命・森の3つに分けられたゾーンを連続させ、時の経過とビーチアニマルたちの進化の過程を重ね合わせる。
試行錯誤が繰り返され現在の姿になるまでのスケッチやメモの数々が展示され作者の息づかいが今にも聞こえてきそうである。

■言葉のラインは防火扉の上にもきざまれる徹底ぶり


■作者の思考がかいま見えるスケッチの数々

1時間に一回デモンストレーションが行なわれ、ビーチアニマルが躍動感あふれる動きを見せる。
動画で何度も見たことがあるが、実際に見ることの大切さがひしひしとわかる。
その緊張感とワクワク感は何ものにもかえがたい。
その場にいたものだけしか現場の空気を呼吸することはできないのだ。

■空気を食べてその圧縮空気の力で動く。ハウルの動く城をおもわせる姿

■思わず正座してしまう迫力です

私はこの展覧会に行った方がいいと人にすすめるつもりはない。
あなたのものの見方、もっというとあなたの人生が変わるかもしれない体験ができる!
大人も子供もビーチアニマルたちに会いに行くべきだ、行かねばならないと声を大にしていうつもりである。
昨日、強烈なインパクトで1日たった今でも興奮さめやらぬ体験者がいうのだから間違いない。

■大分市美術館(設計:内井昭蔵)いい建築です

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2011年7月28日 (木)

旅の記憶たち

私は旅行が好きで、国内外問わずいろいろほっつき歩いています。
ただ、うろちょろするだけではおもしろくないので、そのときどきによってテーマを決めて出かけるようにしています。
フランスに行ったときは「都市の広場」がテーマで、ベトナムは「ウォーターフロント(メコン川流域の生活)」、オランダ・ベルギーは「日本とオランダ、ダッチデザイン、ファッション」といったような感じです。
もちろん、下調べをするのは当然のこと。
「見ようと思うものしか見えない」(建築家・宮脇檀の言)のだから、旅行の前、何ヶ月かは現地の言葉も含めて勉強したり、関係図書を買ったり借りてきたりして暇をみつけては調べてノートにまとめます。
これがけっこう楽しくて、いつか行ってみたいなぁ、ぐらいの感じならやる気もうせるでしょうが、目前にはもうすでに出発日が決まっていて調べるのだから、ルンルン気分で本をめっくてはメモをとることができるのです。
旅に限らず、私のやり方にはそういうところがあって、まず先に結びのところを決めてしまって、もうやるしかないというところに自分を持っていってしまうのです。
ああだこうだ考えずにこっちのほうが早い。ベクトルさえ持っていれば後はなんとかなるものです。

私の仕事机の上には、そんな旅の記憶がたくさんつまった石たちが転がっています。
行った先々で拾ってきたものたちです。
ただの石ころだけれど、私にとっては記憶をよみがえらせリラックスさせてくれる魔法の石。
そんなものたちに囲まれて、記憶と想像力を働かせ、日々仕事に取り組んでいます。


■気持ちいいスペースに運んでくれる魔法の石たち


■旅のメモ帳とマップなど。私の宝物です。

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2011年7月26日 (火)

マイホームを考えている方に①

子供が産まれ、幼稚園、小学校入学、そして時の経過にともなっての親世帯の老齢化が否応なしに感じられはじめると、さて、そろそろマイホームをという考えが浮かんでくるようである。
そのような時、ちょっとしたヒントやアドバイスがあると、考えの幅が広がりなんとなく全体を把握することにもつながっていくというもの。
そこで、私が日々考えていることを、私の頭の整理もかねて何回かにわけて述べていきたいと思う。
まず一回目は、
・子供たちの成長と住まい方の変化を頭に入れておく(住宅関係の雑誌などをめくると必ずのっていることであるが、打合せの最終段階に入ると「やっぱり、子供室があると・・・」「やっぱり子供室は6畳はないと・・・」とかけこみ乗車ばりにおっしゃられる方が多いのです)。
子供の成長からマイホーム計画がもちあがってきたためか、ややもすれば、あたかも子供たちが一生そばに居るかのような計画になりがち。
「子供に子供室はいらない」「子供室を独房にしない」(建築家・宮脇檀の言)という考え方がだいぶ浸透してきたのか、この頃はそうでもなくなってきたが、しかし、「2階に6畳の子供室が2部屋あって・・・」と言われる方もまだまだいらっしゃる。
よーく、考えていただきたい。子供室がどんなふうに使われて、どれぐらいの頻度で、何年子供室として使われるのか。
子供が小さいうちは親子一緒に寝て、小学校中学年頃から各自1人で寝るようになる(欧米の家庭のように、生まれてすぐ個室で寝ていたというような人はまずいないはず)。
小学校から帰ってきたら、ランドセル、制服をダイニングあたりにちょいと置いて、今の時期なら冷蔵庫からアイスを取り出して食べる。母親からがみがみと言われて、やっと荷物を自分のスペースにしまい込みに行くというところか。
子供が大学に行くようになると、遠方にある場合は下宿するようになり、そうでない場合でも友達と遊ぶことに忙しく、家には寄り付かなくなる。
その後は、もう子供室は週に1度掃除をしなければならないホコリだまりの部屋となるか、洗濯ものを部屋干しするためのスペースとなるか、またはいらなくなったものを放置する納戸という部屋になる(また、プライベートスペースは2階にとることが多いため、歳をかさねるごとに縁遠くなるスペースでもあり、用途変更で老後の趣味の部屋などとしても使いづらい)。
結局、子供室が子供室として機能するのは、高校受験の時ぐらいで、その他のときは計画どおりの使われ方をしていないのである。
そこで、子供室をつくらず、子供の服などを収納するスペースと寝るためのスペース、それから共同で使用する勉強スペースを計画するということになるのだが、「やっぱり・・・」とかけ込み乗車があったりと。。。


横大路家住宅スケッチ

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2011年7月25日 (月)

住宅のひかりについて

私は空間を考えるとき、ひかりのことを念頭においてイメージするようにしている。
ここで言うひかりとは、白熱灯・蛍光灯・LEDなどの照明及び太陽光もふくめて言っている。
私たちの身のまわりのものは、ひとつ残らずこのひかりをまとって私たちの目に見えている。
そのものを照らし出しているのが、白熱灯なのか蛍光灯なのか、昼白色なのか白熱灯色なのか、直接光か間接光か、どの角度で光があたっているのか、そして自然光なのかどうなのか等、すべてそのものの見え方を左右する要素なのである。
では、私たちにもっとも身近である住宅における、おちつける場所・空間のひかりとはどのようなものであろうか。
ここで誰もが経験したことがあるであろう、夕暮れの光景を思い浮かべてもらいたい。
夕暮れ時になり太陽高度が低くなり、光が低い所から照らし、影が長く伸び、赤くなった空は徐々に闇に侵食されていく。
人は太陽が沈んでいき、光が低い所からさしこんでくるころには、日中の活動的な気持ちは徐々に抑えられ、心身ともに休むための準備をはじめる。夕日をみるとテンションがあがってどうしようもないという人は、夜の遊びにくりだそうとしている人ぐらいで、これは違う意味でのスイッチが入っているのでここでは割愛したい(昼間以上の活動をされる方々、失礼!)。
住宅の照明はなるべく光源の高さを低くした方がいいと私は考える。
先に述べた、夕暮れ時の人の心理に沿って考えると、真上から燦燦とふりそそぐ光は、人を活動的にする光、影が伸び太陽高度が低くなり光が低いところから差してくるのは、人をリラックスさせ、おちつかせる光ということができる。
住宅は、オフィスなどで活動して、くたくたに疲れて帰ってくる人々のやすらぎの場である。
それなのに、帰ってきても、オフィスように真上から活動をうながす光が燦燦とそそぐのでは、どこでリラックスしていいものか。おまけに、遅くまでテレビやネットサーフィンのPCの光を浴び、はい時間ですとばかりに眠りにつく。心理的なクールダウンが抜け落ちて、いい睡眠が得られるはずがないではないか。いい睡眠がとれずに朝をむかえ、眠気を引きずったまま外の活動の場へ出て行く悪循環を繰り返すことになる。
まず、住宅から白々とした蛍光灯を追い出し、真上から一律に光を照らすことをやめる。
光源の高さを低くするために、スタンド又は床置き型照明を必要最低限設置する。そのときには、必ず生活シーンをイメージして配置し、なんとなくここに、というようなことはしない。あくまでも必要なあかりを配置するのである。
ダイニングの照明は特に大切である。
日本のダイニングとは茶の間の延長線上でのダイニングであり、そこでは、ありとあらゆることがおこなわれる。子供たちの宿題の場となり、みんなでTVをみたりする団欒の場ともなる。
そのような家族が集まる場の光は、白熱灯をテーブルから60センチの高さまでおさえてつける。低ければ低いほどいいと言う人もいるが、座ったときの目線の高さを考え、邪魔にならない高さから、私は60センチを一つの目安にしている。

・住宅には天井から照らす光はつけない。
・部屋の中心に全体を照らす蛍光灯をつけない。
・光は必要なところに必要なだけつける。
・ダイニングのマルチテーブルの照明は、座ったときに光源が目に入らない高さまでおさえてつける。
このようなことを念頭に住宅の照明計画をたてるのだが、お施主さんには明るければ明るいほどいいと思ってらっしゃる方も多く、ひとこと、「暗くならないですか・・・」。
影の部分を意識して光を考えている私としては、「暗い所もできますね・・・」というほかないのだが。。。
(暗い所に身を置いて明るいほうを眺める気持ちよさ!あの気持ちを忘れてしまったのか?)


■私の大好きな熊本・宇土の夕景。
汐がひいているときを事前に調べていくことをオススメします・・・三角港付近の潮汐データ
水たまりでできた縞の幾何学模様が最高に美しいです!!

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2011年7月24日 (日)

スタジオジブリ・レイアウト展

昨日は、昼過ぎから熊本県立美術館[本館]で催されているスタジオブリ・レイアウト展へ。
入館が16時45分までだったので、鳥栖から行って間に合うかな?と心配でしたがぎりぎりセーフ。

会場に入ってまず感じるのは、なんといってもその膨大な量のレイアウト画!!圧倒されるとはこのこと。
パンフレットを確認すると、「・・・総数1,300点のレイアウトを宮崎監督の直筆を中心に、九州で初めて公開します。」とのこと。
レイアウト画なので細かな所まで描き込んでいるようなものではないですが、ポイントポイントを適確におさえた描写、めりはりのある陰と光のつけ方、一本一本の力強い線と動き。ためつすがめつ舐めるようにみて、目をみはり圧倒され、そして感動する体験。
一枚一枚みていくと、自然とそのシーンの音楽、セリフなど物語に引き込まれていく心地いい感覚。
そして、画に描き込まれた指示する文字の数々。ここはどれぐらいのスピードで、どちらに動かすのか、ここは残光がほんのりあたっているように、画面はこう動かしたいんだ、というようなかき込み。現場の空気がそのままその一枚の画から伝わってきます。
レイアウトはあらすじをもとに、キャラクター配置や背景、カメラワークなどを一枚の紙に構成したものだが、私には、このスピード感のある一本一本の線や文字が、ひとの想像力を喚起する一枚の画に変わり、物語の「骨格」そのものであると感じられました。
ここには、本質という肉塊をもろてでつかみあげて、ドンと私たちの目の前に提示する生の迫力があるのです。
入館時間ぎりぎりで入ったため、じっくりみる余裕がなく係りの人に追われるようなな状況だったが、展示スペースを出たときには、おなかいっぱいになった満足感と充足感を覚えた。

さて、ジブリ展をみた後は熊本県立美術館[本館]の見学です。私は何回かスケッチに来ていますが、なんど来てもいい建築です。
この建築は建築家 前川國男の設計した名建築(別館の方は、コンバージョンで設計 トーレス&ラペーニャです。興味のある方はこちらもどうぞ)。
福岡の大濠公園にある福岡市立美術館もこの方の設計です。同じレンガタイルの外観なので、ピンとくる方も多いはず。

■エントランス吹抜け。杉板型枠の柱が力強い。

■喫茶スペースへのブリッジと開放感のある大ガラス。

■森のなかにいるかのような居心地

■アプローチ。木の配置が絶妙です。

■高さをおさえて周辺環境にとけこませています。

■建物が緑にかくれています。建築家 安藤忠雄も表参道ヒルズで並木の高さを意識した設計をしてますよね。

スタジオジブリ・レイアウト展は予想を超える迫力でした。
9月4日[日]までなので、私はもう一度じっくり味わいに行こうと思ってます。
夏休みのお子さんを連れて行かれるといい思い出になることでしょう。
開館時間などはこちらで・・・熊本県立美術館
展示だけではなく、このような写真を撮るコーナーもありますよ。

■トトロのやわらかいおなかにねころんでパシリッ☆

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2011年7月23日 (土)

朝の散歩

私は、毎朝1時間ほど散歩するのが日課。
これをしてない日は、なんか調子が変。
間違えて人のクツはいてる感じというのか、とにかくその日一日、気になってしょうがないのである。
この散歩も含めて、毎朝1時間半ほど朝のウォーミングアップをして、部屋の掃除(簡単にね!)、身じたく、朝飯へとつづいて、さぁ、仕事するぞ!となり、はじめにメールチェックからはいって・・・、とつづいていく。
「いい一日は朝できまる」のである。

そんで、今朝の散歩の時に撮った写真を何枚か紹介。

■「祭り鳥栖」の山車、こじんまりして町のお祭りという感じでいいね。
今日は19時ごろから歩行者天国の夜市もあるみたい。

■朝も早くから、男衆たちが集まっていました。この姿がいいね。
後ろに建つ鳥栖駅も味わいがあって好きです。

鳥栖一番の名建築と私が勝手に言ってる三恵(サンケイ)ビル。
建ち姿がりりしくて好きです。
いい建築にはジーッとみてると、力学的な均衡状態が感じられます。

裏側は抑えがきいたなかで、玄関扉にポップな着色がしてあって、ここも好き。
Rの止めも、長からず短からずの所で切ってあっていいね。

今朝はわりあい涼しくて、さぁ、今日もいっちょうやってやるか!!という気分でスタートがきれた。
徐々に加速していって、昼前ごろからMAXのテンションに、昼過ぎ夕方まで持続して・・・、夕方頃からは自分の好きなことしだして、夜は早くから寝る準備に。
おじいちゃんのような単純明解な一日をめざして、瞬間瞬間を意識して濃い時間をすごす。
そして、ときどきする夜更かしするのがいいんですねぇ(小学生レベル)w。

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2011年7月21日 (木)

ジブリ映画の坂

私は、週に一回のペースでスケッチ旅行に行くことにしている。
仕事柄、手を動かしていないと、なまってくるというのもあるが(図面は、ほぼCAD化してしまい、手でかくことが少なくなっている昨今、ほっとくと手もなまってきます)、何よりもスケッチすることが楽しいというのがその理由。
少し前の話になりますが、そのスケッチ旅行で松浦半島の鎮西町にある茶苑「海月」(設計 吉村順三)に行ったときのことです。
途中、道を間違えて、呼子大橋を渡って島の中をぐるぐるまわってしまったことがありました。呼子大橋を渡ってすぐ左折し、山のほうに登って行き、遊覧ヘリコプター乗り場を通り過ぎて、狭いくねくね道を先に進んでいくと、急に視界がパッとひらけて、

この景色が目の前に!!!(写真は天気が悪い時ですが、快晴時はとってもキレイな透きとおるような青空)
一直線の道で、高低差があり、車が坂にかくれては現れてくる所なんか、まるでジブリ映画にでてくるような光景です。

■DAISHI DANCE - Take Me Home Country Roads (Feat. Arvin Homa Aya)
道に迷って偶然に出会ったのですが、車から降りてボンネットに座りひとときボーッとみとれていました。
この一直線の道を見ていると、なんにもないことに刺激されてか、想像が膨らんでフワフワ不思議な気持ちになります。
ジブリ映画が好きな方、日ごろ仕事に忙しく追われている方、現実逃避のクセのある方、「コクリコ坂から」にあらずジブリ坂に出会いに行ってはいかが?

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2011年7月19日 (火)

今年、初めての海

この頃ずっと暑い日が続いていている上、金・土・日曜まで図面かくのに忙しかった私。暑い時に涼しい景色や開放感を欲するのは身体の生理として当然のこと。
ということで、昨日は朝からクロスバイクで芥屋海岸へ。
鳥栖から3号線で博多まで行き、途中、周船寺のcoco壱で昼飯のチーズカレーを食べた後、伊都を通って芥屋へ。
台風が接近しているせいか、風が強く、ときどき小雨もまじるなかでのショートトリップでしたが、そこは雄大で、のどかな田園の中を、自転車で風を切って走っていると、なんでもなくなってしまうものですね。爽快そのものです。

■のどかな田園風景

■開放的な風景が続く
「きもちいいー!!」環境のなかを進むこと1時間弱で芥屋の浜辺に着きました。

やはり、海の日ということもあって、浜にはおもいおもいのかたちでリフレッシュしている人、人、人…。
久しぶりの海で、更衣室はどこ?荷物はどこに置いとこうか、ロッカーはないの?など、少しとまどいましたが、なんとか海パンに着替えてさっそく海の中へ。・・・しかし、財布持ちで時計はめたままで入る海は味気ないですね。結局ロッカーがなかったので、貴重品は持ったまま入らざるを得ないことになって…、なんか8年前に行ったヴェトナムのカンボジアとの国境がある街チャウドックの海を思い出してしまいました。
ヴェトナムには3ヶ月程いたのだけど、1月もすると極暑のなか動き回っているせいか、きれいな水が見たくてしょうがなくなるのです。メコン川の雄大な眺めはいつでも見れるのだけど、けっしてきれいな水ではなく、水浴びもできないので(現地の子供たちはかまわず泳いでますが)。
そこで、バイクタクシーをチャーターして市街から50キロ程離れた海岸へ。海パンは持って行ってなかったので、ズボンを足のつけ根まで折り曲げて、ひとときの涼しさを味わったのだけど、荷物は目の届く所に置いて、パスポートなどの貴重品入れは首からさげてというのじゃ、やはり欲求不満になってしまいます。思う存分、海につかって泳ぎたい。だからといって、一人旅の身じゃどうすることもできないのだけど。
ちょっと、この話に関係ないことを思い出してしまったので書きますが、そのチャウドックの浜辺から、再びバイクタクシーをチャーターして市街のホテルまで帰ったのですが、帰りはちょうどサンセットの時間帯に。沿岸道路からの夕日は生涯で一番感動したサンセットの風景でした。
バイクの後部座席で現地の運転手に向かって、夕日を指差して「見て、見て、キレイ、キレイ!!」と興奮して言っていたからでしょうか、おもむろにバイクを止めると、ちょっと小便と運転手。最高にキレイなサンセットを真正面に海の方を向き、運転手と並んで生涯最高の立ションをしたのでありました。目を閉じて小便したのは、前にも後にもこれ一回きり。「忘れないよ!ヴェトナム」(田口ランディ著の本のタイトル)。
さて、本題に。
帰りは芥屋から福岡にとりあえず出て、それから3号線にのろうという事で、福岡方面へ向かう。
途中、小腹がすいたので、今宿駅前の日本一たい焼でカスタード・黒アンを一つずつ買って食べる。

■一つ150円は高いんじゃない?と思うけど、味は確かにいい
天気の雲行きがあやしくなって来ているのに気づいてはいたけれど、まぁ、大丈夫だろうという根拠のないものに突き動かされて進むこと15分。ものすごい集中豪雨に入ってしまった。
やむなく、地下鉄 室見駅まで行ってクロスバイクをたたんで、電車で帰ることに。こういう時にフォールディングできると助かります。
雨に降られて、ずぶぬれになって終わった今回のショートトリップ。しかし、自分で体験して感じたことは、なにかしら記憶として残ります。それは何ものにもかえがたいもの。いくらかの時間と体力を消費して得たことは、8年前の立ションをありありとよみがえらせるのだから。。。

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2011年7月17日 (日)

「あたりまえ」のことを考える

「あたりまえのことを考える」とは私の知っている中では、建築家 宮脇檀氏の言葉である。言い古された言葉であるので、先達の多くの方も同じようなことを言っておられる。
「①そうあるべきこと。当然。②変わった所がなく、普通である様子。」(新明解国語辞典)
「①そうあるべきこと。当然。②ごく普通であること。なみ。」(広辞苑)
と、辞典を引くと書いてある。
私は、建築設計という職業柄、ほんものとは?いいものとは何?というようなことを、日々考えるクセがあるのだが、結局いきつく所は、生活あるいは生きることにおいての豊かさ・潤いとは、目と鼻の先、私たちの足元に常にあり、それらは当然、生活と密着しており何気なくこなしている動きの中で、反射的に処理されているため、「あたりまえ」と化しているということである。
例えば、長い間、病院に入院している方などに、いま一番したいことは?と質問すると、家でゆっくりお風呂に入りたいとか、家でみんなで食卓を囲みたいなど、いわゆる「あたりまえ」に私たちが日常生活でこなしていることを、一番したいこととしてあげられることを思うと納得いくはず(間違っても豪華客船に乗って世界一周したいとか、ミシュランの星つきレストランでディナーを楽しみたいなどではないのである)。
しかし、この「あたりまえ」化していることを考えることは、なかなかたいへんなことなのである。
なぜなら、先に述べたとおり、無意識に、反射的に処理している事柄であるため、そのことについてもともと疑問を持つということになりにくいためである。ニュートンのりんごである。
しかし、このニュートンのりんごは、私たちがものを考えるときにはとっても大事なことであって、少し専門的な話になってしまうが、建築家 吉村順三氏宮脇檀氏との対談の中で、「なぜ、扉に枠がついているのかを考えると枠のない扉ができるよ」と言っている通り、新しい変化や新しいものが生まれるときは、この私たちの生活であたりまえと思われているベースから考えていかなければ、ものづくりの世界では、単なる「デザイナーごっこ」(デザイナー 三宅一生氏の言)に陥ってしまうのである。
さて、話が堂々巡りして、こんがらがってしまいそうなので、もう一つ、作家 村上春樹氏が書かれていたことを抜粋して終わりにしたいと思う。
“F・スコット・フィッツジェラルドは娘にあてた手紙の中にこう書いている。「もしあなたが他人と違うことを書きたいと思ったら、他人と違う言葉を使って書くことです」。はじめて小説を書いたとき、僕はいつも頭の中でその文句をつぶやいていた。…”

■写真は、朝の散歩をしていたときに見つけた「あたりまえ」化しているものです。

単なる道路標識です。

しかし、横からじっくり見ると、15度ほど垂直面に対して勾配がついています。
ぱっと見た感じは垂直についているように見えるけど、実は運転手の視界に入りやすいように勾配がとってある。
「あたりまえ」をよく見ると、「あたりまえ」ではないことに裏付けられている。

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2011年7月15日 (金)

ムツゴロウさん

先日、ムツゴロウさんにお会いした。
子供の頃、あの楽しみでたまらなかった「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」がTVで放送されなくなって、お元気にされているだろうかと、ムツゴロウさんファンの私としては、勝手に心配していたのだが…いやー、相変わらず人間業を忘我の境地で、断・断・断・捨・捨・捨!!!愛情に飢える野良犬さえも、一歩あとずさりしてしまう勢いで、動物になりきってペロペロ…
っと、書きたいところだが、あのムツゴロウさんではなく、私が会って来たのは、あの干潟にいるやつね(長い前置きになってしまった)。
佐賀に住んでいて、初めて本物を見たというのだから、あまり偉そうに言うような話ではないですね。
その日は天気も良く、青空の下、太陽が燦燦とふりそそぐなか、クロスバイクで鳥栖から芦刈まで。
途中、佐賀県立図書館に立ち寄って本をチェックして、さて、どっちの方向におもしろいことがありそうかな、という具合に、結果として芦刈海岸にたどり着いたというわけ。
始めて見るムツゴロウは、本当に不思議な生き物でした。干潟に直径1.5~2センチ位の穴がポコポコ開いていて、そこからピョコッ、ピョコッと勢いよく飛び出してきます。そして、勢いよく飛び出してきては、不自由な歩き方?で、また穴の中へ帰っていくのです。あれは、何のために穴からわざわざ不自由な干潟に飛び出してきているのか、あまり息苦しそうではなさそうだけど、肺呼吸?しているのだろうか、など等、不思議という言葉がぴったりの生き物です。
静かな干潟で、ジッとムツゴロウの動きを見ていると、
「何のために私たちは外に飛び出してきてしまったのか」そして、「不自由な世界で、私たちはどこの穴に向かおうとしているのか」なんて深読みしたくもなりますが、結局、私たちは、無数のムツゴロウたちが繰り返すように、穴から出ては入るを繰り返すのです。
先のムツゴロウさんも不思議な生き物(失礼!)と人から見られようが、何と言われようが、自分のベクトルだと確信した方に、バカになって突き進むから魅力があり、何年経っても、また「ゆかいな~」を見たいなぁ、とムツゴロウさんファンの1人である私に思わせるのです。
脳科学者の茂木健一郎さんが、ブログ「クオリア日記」(2011/4/09)で書かれていました。夏目房之介さんが、いたずらっぽくこう言ったそうです。
「僕はマンガが好きで、マンガばかり描いて、大秀才の漱石とは逆のスタート地点だけど、それを突きつめたらマンガ学ということになって、いつの間にか大学の教授になって、学問を教える立場になってしまった」と。
そして、茂木さんがこう続けます。
「バカになればいい。賢くなればいい。バカになることと、賢くなることは、きっと同じなのだ。そこに生命の運動がある限り。人間である限り。」
ああー、ますます忘我の境地のムツゴロウさんが見たくなりました。また「ゆかいな~」を再放送してくれないかなぁー。TV関係者の方、よろしくお願いします。
それで…、何の話でしたっけ??

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