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2011年7月17日 (日)

「あたりまえ」のことを考える

「あたりまえのことを考える」とは私の知っている中では、建築家 宮脇檀氏の言葉である。言い古された言葉であるので、先達の多くの方も同じようなことを言っておられる。
「①そうあるべきこと。当然。②変わった所がなく、普通である様子。」(新明解国語辞典)
「①そうあるべきこと。当然。②ごく普通であること。なみ。」(広辞苑)
と、辞典を引くと書いてある。
私は、建築設計という職業柄、ほんものとは?いいものとは何?というようなことを、日々考えるクセがあるのだが、結局いきつく所は、生活あるいは生きることにおいての豊かさ・潤いとは、目と鼻の先、私たちの足元に常にあり、それらは当然、生活と密着しており何気なくこなしている動きの中で、反射的に処理されているため、「あたりまえ」と化しているということである。
例えば、長い間、病院に入院している方などに、いま一番したいことは?と質問すると、家でゆっくりお風呂に入りたいとか、家でみんなで食卓を囲みたいなど、いわゆる「あたりまえ」に私たちが日常生活でこなしていることを、一番したいこととしてあげられることを思うと納得いくはず(間違っても豪華客船に乗って世界一周したいとか、ミシュランの星つきレストランでディナーを楽しみたいなどではないのである)。
しかし、この「あたりまえ」化していることを考えることは、なかなかたいへんなことなのである。
なぜなら、先に述べたとおり、無意識に、反射的に処理している事柄であるため、そのことについてもともと疑問を持つということになりにくいためである。ニュートンのりんごである。
しかし、このニュートンのりんごは、私たちがものを考えるときにはとっても大事なことであって、少し専門的な話になってしまうが、建築家 吉村順三氏宮脇檀氏との対談の中で、「なぜ、扉に枠がついているのかを考えると枠のない扉ができるよ」と言っている通り、新しい変化や新しいものが生まれるときは、この私たちの生活であたりまえと思われているベースから考えていかなければ、ものづくりの世界では、単なる「デザイナーごっこ」(デザイナー 三宅一生氏の言)に陥ってしまうのである。
さて、話が堂々巡りして、こんがらがってしまいそうなので、もう一つ、作家 村上春樹氏が書かれていたことを抜粋して終わりにしたいと思う。
“F・スコット・フィッツジェラルドは娘にあてた手紙の中にこう書いている。「もしあなたが他人と違うことを書きたいと思ったら、他人と違う言葉を使って書くことです」。はじめて小説を書いたとき、僕はいつも頭の中でその文句をつぶやいていた。…”

■写真は、朝の散歩をしていたときに見つけた「あたりまえ」化しているものです。

単なる道路標識です。

しかし、横からじっくり見ると、15度ほど垂直面に対して勾配がついています。
ぱっと見た感じは垂直についているように見えるけど、実は運転手の視界に入りやすいように勾配がとってある。
「あたりまえ」をよく見ると、「あたりまえ」ではないことに裏付けられている。

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