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2011年8月

2011年8月29日 (月)

河内ダムへスケッチに

昨日は、週一で習慣としているスケッチへ。

この頃、急に豪雨が降ったりして不安定な天気が続いていたが昨日は晴天。
残暑で気温・湿度ともに高いが、せっかくのいい天気を逃してなるものかとクロスバイクで行く。

とりあえず、涼しそうな方にということで河内ダムを目指すことに。
山道を軽いギアでゆっくり登る。

すこし山に入るだけで体感気温がぜんぜん違う。
木陰に入るととっても涼しい♪

っと言っても汗は流れるように出てくるのでこまめに水分補給をする。
水が残りわずかになってきたので自販はないかなぁときょろきょろしながらペダルをこいでいると、
突然、脇から・・・

ヤギが現れる!!

この辺りで飼われているのが逃げ出したのだろう。
ヤギは通る車に驚いたりしてメェーメェー鳴きながら少しパニック状態。
興奮しているのが見てとれ、しかも立派な角をお持ちだったので変に興奮させないように静かに観察。

近くでみると結構でかいんでよね、ヤギって。
しかも5メートル範囲に入ってくると独特のにおいがして強烈にくさいっ。

ヤギに別れを告げ、山の景色を楽しみながらゆっくりと登っていく。
やっぱり、目的地がある程度近いと気分的にぜんぜん違いますね。
決めた以上は長崎まで行かねば!っというような旅だとこういう気分のゆとりがなかなかあじわえません。

河内ダムはひらけていて周辺の景色もきれい、青々とした緑が気持ちいい。

ここでクロスバイクを降りてスケッチを一枚。
木陰で描いているときの涼風と鳥のさえずり・虫の音、無心になれます。

帰りはずーーっと下り坂。
何回体験してもこの登った後の下りは爽快!

今回のスケッチは近場だったので帰りも明るいうちに楽々・・・
暗くなってからのクロスバイクでの帰途はなかなか大変なんです、体力的にも心理的にも。
近場に自然があるのはやっぱりいいですね。
リフレッシュできました。

しかし、河内ダムのプールは親子連れですご~くにぎわってました。
お父さんたちの疲れた顔が印象的でしたww
ホントお疲れ様です。

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2011年8月22日 (月)

愛知県立芸術大学の建てかえ計画

愛知県立芸術大学は東京芸大の弟分というようなかたちで、当時芸大で教鞭をとっておられた吉村順三氏をはじめ奥村昭雄氏などたくさんの建築家が長い年月をかけて計画した知の結集ともいうべき名建築である。

その愛知県立芸術大学の建てかえの話を去年の初め頃にきいた。
さっそく去年の3月にその愛知県立芸術大学で行なわれた見学会及びシンポに参加してきた。

大学側の話では、耐震や機能上の問題など諸々のことに支障をきたしているため取り壊して新しく建てなおすということらしい。
いわゆる老朽化してきたのでスクラップ&ビルドしましょうということだ。
今あるものを取り壊さなくても耐震補強の上、補修や増築などさまざまなやり方が考えられるはずだが、とりあえずゼロに戻してという考え方はどう考えても時代錯誤はなはだしい。
結局は、昨今の大学の合併など苦しい大学の運営において客寄せパンダの役割として新校舎をということなのであろう。

建築は建った瞬間から時とともに人々の記憶として刻まれていくものである。
ましてや大学OBの方々にとって校舎は青春の1ページを彩る大切な記憶であろう。
記憶は人間が生きるうえで原動力となるものである。
先ごろ世界の記憶として登録され炭鉱の現場を微に入り細に入り描いた山本作兵衛の絵画を考えてもらいたい。

教育を行なう現場で人の記憶がないがしろにされ何が教育なのだろう。
芸術大学として恥ずべきことである。

私には老朽化=老人は目に見えるような生産をしないから不要である。
よって、姨捨山に捨てようじゃないかという発想にしかうつらないのであるが・・・。
人間が人間らしく暮らしていくためには老若男女それぞれ必要なことぐらい直感的にわかるはずなのだが、目先のことにとりつかれてしまうと人は盲目になってしまうらしい。

いずれにせよ、大学側にはあと百万遍ほどの熟考をお願いしたい。


■木々に埋もれるよう建つ


■陰影が美しいプレキャストのルーバー


■視線が抜ける感じとはまさにこのこと!

参考:
愛知県立大学立て替えについて 最新情報が掲載されています。

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2011年8月17日 (水)

ラムネ温泉をご存知?

8月14日は朝からスケッチに。
目的地は大分県直入の長湯温泉
比較的低温で長く浸かっているとポカポカしてくる炭酸泉です(身体に泡がブツブツついてまさしくラムネ!)。
熱い夏にはぴったりです。

ここには、建築に興味のある方には周知のラムネ温泉があります。
設計は藤森照信さんですね。

一見、素人の方がセルフビルド?と思わせるようなかたちの建築をつくられている建築家です。
非常にユーモラスなかたちで、鉄板屋根や塗壁のテクスチャに設計者の意思が強く感じられます。
建築界では常識とされていることを、一つ一つ丹念に見直していくと、このようなかたちになるのかもしれません。

好き嫌いがはっきり分かれる建築だなぁと感じます。
嫌いな方は、ごちゃごちゃしていて少しやりすぎの感があって嫌いと言われる方が多いです。
街の雑貨屋さんっぽい感じといったところでしょうか。
好きな方は、そのこだわりぬいた仕上げと遊び心がいいねと言われます。

どっちにしろ、好きな人嫌いな人がいることはとってもいいことだと思います。
設計に意思のベクトルがしっかりと反映されていなければ好き嫌いが出てきませんからね。

建築設計は設計者単独で完結できる仕事ではありません。
そこには、現場で作業をされる方もいればお施主さんもおられます。
設計者は土地の歴史や風土、風や日照などの微気候、お施主さんの想いなど、さまざまなことを頭と身体で考えて全体性を持った建築をつくろうとします。
しかし、ありとあらゆる要素を咀嚼してアウトプットされる建築は、設計者のキャパシティ以下でもなく又それ以上でもありません。
結局、設計者の内にあるものしか成果として出すことができないのです。

だから、こうしてせっせせっせと暇をみつけては国内外問わずスケッチに行くのですが、周りには旅行したいがためのいいわけ程度にしか見られていないような・・・(半分は当たってる?)


■ラムネ温泉外観スケッチ。屋根の上に生えた木がなんともユーモラスな表情。
夜は、外壁の焼杉と漆喰のストライプが幻想的な表情になりオススメです。

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2011年8月11日 (木)

先達の知恵でぐっすり眠ろう

連続猛暑日という言葉がぴったりの今日この頃、みなさん毎夜気持ちよく寝られてますか?
そういう私はどうなのか?
「はい、とっても気持ちよく寝られてますよ」

ちょっとした工夫をしているんです。
答えは寝ござです。

ちょうど1週間ほど前でしょうか、その夜は風もなくジッと横になっていても、ちっとも涼しさが感じられず寝つけない。
寝つけないから、敷き布団の寝ている部分が体温で温まってしまってますます寝られない。

小さい頃、冷たい所を求めて布団の端から端までゴロゴロした記憶みなさんお持ちですよね。
こういう時ウォーターベットだったら気持ちいいんだろうなぁなんて考えながら、その夜はとにかく寝られないながらも寝たわけです(結局気づかないうちに寝られるわけですが)。

そして2~3日前、祖父と一緒に寝ていた頃のことを思い出しました。
私がまだ小さかったその頃、蚊帳を吊って敷き布団の上に寝ござを敷いて寝ていたことを思い出したんです。

思いついたらとりあえず試す(何事も試してみなけりゃわからない)。
さっそく、その頃使っていた寝ござを押入からさがしだし、天日干しして夜に備えました。

まあ、その気持ちのいいことといったらなんと言っていいのやら!
「まあ、なんということでしょう」とでも言いたくなりますよ

(匠:松谷卓

子供の頃は、嫌だったあのござの香りも今は安心感を誘うものとなり、嫌だったザラザラ感も汗をかいてもべったりとシーツにつかないサラサラ感に変わっているではないですか。

ちょっとしたことなんですね。
解決方法なんてほんの目と鼻の先にあるのです。

そんなわけで、私は毎夜涼しい風が吹く満天の星空の下、サラサラの草の上でぐっすり眠るのであった(実際は、窓に網戸を閉め、日に焼けた天井を見上げて敷き布団の上の寝ござに寝ているのだが、あくまで気分はこんな感じということで・・・)。

ふかふかの布団の上で、エアコンがんがん効かせて寝ていて最近どうも調子が・・・という方、寝つきが悪くちょっとしたことでイライラしてしまっているあなた、一度だまされたと思って寝ござ使ってみませんか?(DIYで買ったら安いもんです)

風土の中で育まれたちょっとした工夫で、あなたもさわやかな涼風が顔をなでる満天の星空の下、サラサラした草の上でぐっすり眠ってみませんか(ちょっと言い過ぎました、失礼!)

■サラサラ草の上で今夜もぐっすり・・・


■しまう時はクルクル丸めてコンパクトに

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2011年8月10日 (水)

出てきたものは産まねばならぬ

私は、建築に関して何かを考えなくてはならない又は、つくらねばならないという状況になった時から考え始めたり、模型を製作しているわけではない。
少なくとも私の場合は、生活の流れの中でいつも建築のことを考えているように思う(デザイナーの皆川明氏は、このことを「絶えず釣り糸をたれた状態」と表現されていた)。
そして、コレおもしろいかもと思ったら迷わずステディ模型をつくったり、紙にスケッチと文字をかき散らして、頭の中のただ漠然としたイメージを整理し置き換えるようにしている。

そうやってつくった模型やかき散らした紙は、仕事机の隅の方に置いておく。
絶えず目の片隅に入ってくる模型やスケッチ達は、合間合間で微修正を繰り返されていく。
その時々の考えや気持ちの変化で付け加えたり削ったりすることもあるし、今まで何かしっくりこなかったものに対してこうしたらどうかなと手直ししたりもする。

直接的動機や何か具体的な注文が入ってつくったものではないため、それそのものが、直接実際の建築につながっているのかと問われると否と答えざるを得ない。
しかし、自信をもって言えるのは、これらのものが私の考えや感じ方を反映しているのは確かだということである。
そういう意味では、建築に対する自分のスタンスや考えを自分の中で深めたり磨きこんだりしているのかもしれない。
私のもっとも純粋で正直なものづくりに対しての意志が、生のままで机上にごろんと転がっていると言える。

それらに私以外の人の目に触れる機会はない。
ボードが熱で反ったり表面が黄色く焼けたりして、手にとられる頻度も減っていき、いずれは私の視覚に入らなくなり記憶からも消え去ってゆくのである。
だからと言って、それら消え去ったもの達が存在していなかった時点に返るのかというとそうではない。
それらがつくられ、修正を繰り返しながら練られたコンセプトや考え方は、私の建築の思考の土台となり永遠に消えることのない痕跡を私の身体に刻みこんでいるからだ。
存在することの重みとはそういうことだと思う。

■つくっては壊すを繰り返す作業台

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2011年8月 8日 (月)

本土最西端まで自転車150キロの旅

昨日は、ルーチンとしているスケッチ旅行に行く。
朝から燦燦と日の照るいい天気、もったいないとばかりにクロスバイクで行くことに。
目的地は、九十九島のあたりかなと漠然としたものがあるのみ。
天気が良すぎて!!灼熱の太陽の下、こまめに水分補給をしつつ進む。
鳥栖から34号を通って小城、武雄を経て、35号で佐世保方面へ。

■青空と田園風景の小城

有田あたりはアップダウンが激しく、歯をくいしばって登った後の下り坂の気持ちのいいこと、生き返るような感じとはこのこと。

有田に入る手前で、いい建物をみつけて休憩も兼ねてじっくり観察。

■プロポーションがいいなぁ、とあっちからこっちから観察


■玄関部分。みればみるほど味わいが増すスルメのような建築

有田市街に入ったのは昼過ぎ。
猛暑の中、4時間半ほどペダルをこいできたのでお腹もペコペコ、ちょっと腹ごしらえということでラーメン屋さんで昼食をとることに。
エアコンが効いたところで食べる熱いラーメンは最高です。
ねぎラーメン(650円)を汁まですっかり飲み干して充電完了。
冷たい水を2、3杯飲んだら再び外へ。

台風の影響か、先ほどよりも雲が多くなって風が吹いてきた。
向かい風ほどペダルを重たくするものはない。
雨が降らないことを祈りながら先を急ぐ。

佐世保市街に入る。
佐世保は周知のごとく坂の多い街。
途中、親和銀行本店・懐霄館(設計:白井晟一)をちょっとみて、アップダウンを繰り返しながら204号を北上する。

気がついた時はもう遅かった。
九十九島方面に行く左折すべき道を通り過ぎてしまったようだ。
そのまま204号を平戸・松浦方面に北上しつつ西にぬける道をさがす。
そうこうするうちに北九十九島左折の文字がみえる。

うっそうとした山道をぬけると誠にのどかな集落に出た。
おとぎ話級ののどかさだ。
田園風景を横目にみつつ走行していると、びびっと惹かれる石造の橋(西川内橋)がみえる。
惹かれるもの・美しいものに出くわす時は、いつも道に迷っている時である。
だから、プロセスのある旅はやめられない!

■緩やかに勾配のついた太鼓橋が目にはいる


■やさしい弧を描くアーチ


■低い欄干の向こうに広がるのどかな風景

風に小雨がまじる中スケッチをすることに。

■水面に橋が写ってきれいだった

さて、雲行きのあやしい空の下、スケッチは15分ほどで終わらせ一路本土最西端の神崎鼻へ。
磯の香り漂う雰囲気のある漁村をぬけると神崎鼻公園だ。
駐車場にクロスバイクをとめ、リュックからカメラを取り出し波があらう磯の方へ。
外海で風も強く時化ている。
海がうなり恐ろしいばかりの波が岩場にぶつかる中、本土最西端の碑のある所まで歩く。

■波が高く恐ろしいうなりとともに岩場をあらう

途中、波が遊歩道まで上がってきて膝までロールアップしていたチノパンがずぶぬれ。

■ぬれてもほっとけば乾く、気にしない♪

それでも、冷たい海水が気持ちいい。
かまわずじゃぶじゃぶと歩を進め、少し高くなった所にある最西端の碑まで。

■本土最西端の碑

神崎鼻を出たのが17時頃。
再び佐世保まで引き返します。

この帰りの20キロほどがこたえるんですよねぇ↓。
蓄積した疲労をかかえたまま、佐世保へのアップダウンをただただこいでこいで・・・。
佐世保からは自転車をホールディングしてバックにつめ、18時44分のみどりで一路鳥栖へ。
エアコンが効いた電車の中は極楽そのもの。
太陽に焼かれながら約150キロ走り抜ければ、そりゃ極楽に違いないわな ww

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2011年8月 6日 (土)

筑後川花火大会

昨夜は、姉の住んでいる集合住宅の13階から筑後川の花火を鑑賞した。
昨年も、テーブルワインをちびちび飲みながら花火を眺めたことを思い出す。

1年経つのってはやいですね。
年齢を重ねるごとに、加速度的に時が過ぎ去ってゆくのがはやく感じられるようになります(その逆があってもいいはずなのに、そんな人と会ったことありません。なぜだろう)。

遠くであがっている花火は、それはそれできれいなのですが私にはなんだかもの足りません。
映画館で映画みるのとDVDでみるのの違いというと感覚的に近いかもしれません。
インパクトに欠けるのです。
なによりの証拠に、さっきまで隣でいっしょにみていた小4の甥は、いつの間にかベランダからいなくなりリビングでDSを始めていました。子供は正直です。

人は、身体を使うプロセスを経ることで記憶に残りやすくなります(だから、男性は元カノを忘れられないでいつまでも引きずるわけか。くらべて女性は男性の身体的恋愛に対して精神的恋愛の面が強いのでしょう。女は内的(心)に恋して、男は外的(ナイス・バディー)に恋する、失礼!)
試験勉強のとき、ぶつぶつ言って書きながら覚えると効率良く頭に入るのと同じ原理ですね。
打ち合わせ時のメモも然り。
書くという身体的プロセスを一つ加えることで記憶に残りやすくなります。

記憶は私たちの心理的安全基地となり、私たちが何かに一歩踏み出すときの不安感を払拭する勇気を与えてくれます(たいてい、できないと言っていることはこの一歩が踏み出せないこと。一歩が出るとあとはこっちのものです)。
記憶は人が生きていくための原動力であると信じている私としては、やはり花火は会場までのプロセス・あがるまでの待ち時間・屋台からのいいにおい・体全体で感じる音・光・火薬のにおい・帰宅するプロセス・そしてこうして回想する時間、そのすべてひっくるめて花火なのだとあらためて思わせられました。

■なんどみてもきれいです


■最後のクライマックス、みだれうち

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2011年8月 5日 (金)

暑さをしのぐ先達の知恵

いやぁー、毎日暑い日が続きますね。
暑さ寒さに強い私は、基本的にエアコンはつけず自然の風オンリーですが、日中はやはり暑いのは暑い。
そこで南面している仕事机前の窓の軒先にすだれをたらしています。

■観葉植物とあいまって涼しげ

強い日差しを和らげることは言わずもがなですが、すだれを通して眺める外の景色はいいものです。
日本には昔から葦(よし)を使った建具や皆さんご存知の障子など、何かを空間の区切りとして関係性を閉じながらも、それゆえにより深いつながりをつくるという文化があります。

葦により外光が適当に遮断されることで内部空間は薄暗くなります。
人は明るいほうを向くという習性を持っています。
それゆえ、明るい方つまりは建具で区切っている方に意識が向かい、限られたスペースのなかで心理的な広さが生まれます。
あわせて、建具の向こう側からは内部が暗いため視覚的には閉じられ、逆に内部からは視線が抜けて開かれるのです。

一朝一夕で思いつく仕掛けではないですね。
長い時間の蓄積のなかで生まれたかたちといえるでしょう。
深い庇がかかる縁側など、いわゆるグレーゾーン(白黒つかない曖昧なスペース)も然り。
茶室の空間を持ち出すまでもなく、ある限られた空間を心理的効果をふまえて、常人が感覚的に心地よさを自然に感じることができる地に足のついた仕掛けなのです。

私は、家は小さくつくる方がいいのではないかと考えています。
このような日本の風土の上で生活するのですから、世界が羨ましがる文化を活かしてつくる方が何より合理的でいろいろな意味で無駄がないのです。
小さく建てて、その分でできる外部空間を上手に活かして感覚的な気持ちよさをつくり出すのです(体感気温とか言いますよね。人は気温という数字がダイレクトに感じられているのではなく、風・日差し・湿度などが総合されて感じられているのですから)。

それにしても、我が仕事場の前の木にとまっている数え切れないセミたち(みんな見た瞬間に気持ち悪いと言います)がいっせいに泣きわめくことのうるさいことうるさいこと。
電話の声が聞こえないほどです。
夏らしくていいではないですか、ではここで一句「岩にしみいる・・・」、
となるまでには、いくらこの風土で生まれ育ったとはいえ、あと2~30年かかることでしょう。
一朝一夕ではない時の蓄積が必要なのですww

いずれにせよ、暗い方から明るい方をみることは何ともいえない気持ちよさがあります。
外を覗き込む気持ちよさといえるでしょうか。
すだれという幕をたらすだけというシンプル極まりないこの手法。
やられていない方は、ぜひ一度ご体験あれかし。


豪華客船ダイヤモンドプリンセス 長崎港にてスケッチ

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2011年8月 3日 (水)

マイホームを考えている方に②

今日はマイホーム計画コラムの2回目として
・住宅の身体性について
をテーマとしたい。

住宅の身体性なんていうとなんだか小難しくきこえてしまうが、要は私たち人間がおちついてすごせるための住宅を、人の感覚を通して考えてみようということ。
私たち設計をしている人達は、このことをヒューマンスケールでいいとかヒューマンスケールを逸脱していて・・・というような言い方をすることが多いが言いたいことは同じである。
それでは、身体的感覚にもっともしっくりとくる空間のあり方を考えてみよう。

私たちは日頃どのようにしてものを把握しているのだろうか。
例えば、子供の頃はあの駄菓子屋さんまでよほど遠く感じていたが、大人になって久しぶりに歩いてみたらこんな近かかったっけ?と思うほどだったとか、ネットショッピングで商品画像みて買ったけど送られてきたらイメージと違ってひとまわり小さかったなど、その手の感覚の違いは数え上げればきりがないほどである。

なぜこのようなことが起こるのであろうか。
先にあげたネットショッピングの商品画像といっしょに大きさが比較できるようなものが写っていたらどうだっただろうか。
もし商品を指さす手がいっしょに写されていたら、このようなイメージの齟齬は起きなかったのではなかろうか。

私たち人間はものを相対的に把握しているのである。
人類共通のメートルという単位も、地球の直径の1,000万分の1を1メートルとした相対的なものですね。
歴史的にみても、日本の尺・間、欧米のフィート・インチ・ヤールなどは人体を基準とした寸法であり、当然相対的なものである(堅苦しく考えなくても皆さん日々実践されてますよね。女性の方、身に覚えがありませんか?街に友達と買い物に行くとき、もう一人「この子には勝ってるわ!と思える人」加えていませんか・・・そして街中歩くときはその子の隣歩いて相対的効果を利用してませんか?女性は賢いですね、私も含めて男性はくれぐれもご注意を・・・)。
このように私たちの目にうつしだされている世界は、すべて人間の性質上、何らかの基準と比べられたものとして認識されるということができるのである。

私たちが住宅を設計する時は、当然前述してきたことをふまえて計画していく。
例えば、ある空間の天井の高さを考えるとする。
その空間での日常の生活を想定する。
どのような姿勢でくつろぐのだろうか、どのような動き方をするだろうか、視線の向きはどうか・・・。
そして、他の空間との相対的関係性はどうだろうか。
廊下は天井の高さをぎりぎりまで抑えて、居室に入ったときに天井の高さが(相対的に)高くなって開放感が感じられるようにしようか。
立っているときは目線の高さは壁として視線をさえぎり、ソファに座ってくつろぐときだけ視線が抜けるように座ったときの目線にあわせてガラスを嵌め込もうか・・・(雪見障子の原理ですね)。
人間のための空間のあり方を求めて設計は進んでいくのである。

人間は、内・外面問わず相対的に世界を認識する動物である。
よって、人間の生活にもっとも密接した住宅は相対的思考を縦横無尽に駆使したものでなければならない、と私は説明するのだが。
「ちょっと天井が低すぎやしませんか・・・」とお施主さんの一面的思考でバッサリ斬られて、がっかり肩をおとして修正を重ねる時も・・・


■シトー会伊万里の聖母修道院聖堂(設計:香山壽夫)スケッチ
正面下屋の高さを低く抑えることで高低のメリハリがつき端正な外観となる

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