筑後川花火大会
昨夜は、姉の住んでいる集合住宅の13階から筑後川の花火を鑑賞した。
昨年も、テーブルワインをちびちび飲みながら花火を眺めたことを思い出す。
1年経つのってはやいですね。
年齢を重ねるごとに、加速度的に時が過ぎ去ってゆくのがはやく感じられるようになります(その逆があってもいいはずなのに、そんな人と会ったことありません。なぜだろう)。
遠くであがっている花火は、それはそれできれいなのですが私にはなんだかもの足りません。
映画館で映画みるのとDVDでみるのの違いというと感覚的に近いかもしれません。
インパクトに欠けるのです。
なによりの証拠に、さっきまで隣でいっしょにみていた小4の甥は、いつの間にかベランダからいなくなりリビングでDSを始めていました。子供は正直です。
人は、身体を使うプロセスを経ることで記憶に残りやすくなります(だから、男性は元カノを忘れられないでいつまでも引きずるわけか。くらべて女性は男性の身体的恋愛に対して精神的恋愛の面が強いのでしょう。女は内的(心)に恋して、男は外的(ナイス・バディー)に恋する、失礼!)
試験勉強のとき、ぶつぶつ言って書きながら覚えると効率良く頭に入るのと同じ原理ですね。
打ち合わせ時のメモも然り。
書くという身体的プロセスを一つ加えることで記憶に残りやすくなります。
記憶は私たちの心理的安全基地となり、私たちが何かに一歩踏み出すときの不安感を払拭する勇気を与えてくれます(たいてい、できないと言っていることはこの一歩が踏み出せないこと。一歩が出るとあとはこっちのものです)。
記憶は人が生きていくための原動力であると信じている私としては、やはり花火は会場までのプロセス・あがるまでの待ち時間・屋台からのいいにおい・体全体で感じる音・光・火薬のにおい・帰宅するプロセス・そしてこうして回想する時間、そのすべてひっくるめて花火なのだとあらためて思わせられました。
■なんどみてもきれいです
■最後のクライマックス、みだれうち
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